百年を生きる 森房次郎翁小伝(付録 長寿の秘訣を間く)

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序にかえて

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山森グループ代表 森 秀男

父房次郎が今年かぞえで百歳を迎える。日立市で男性では最高齢者になった。“長生きしている人はそれだけで尊敬できる人だ"と父のことを四年前他界した長兄の卓男がよく言っていた。特に父の場合若い頃にいくつかの大病を克服しての長涛であるところに一段と年輪の重みを感じる。

「己を治めるは万人を治めるより難し」と言う。父のように意志を強くして、自在に自分をコントロールできる人は素晴らしい。どんな好きな酒でも医者から注意されるとピタリと止める。

胃に負担がかかるといって夏でも冷さないピールを飲む。一事が万事である。体は自分のものだが人の為にある。一度しかない人生‘やれば出来る養生をしっかりやって丈夫で長持ちさせるのは「務め」だと言う。

加えて人生に確固たる信念と‘常に他に感謝の気持を持ち続けている父の生き様は私達の理想でもある。これは「尊敬できる人は?」との問いに私が一番先に父の名をあげる由縁である。しかし父の今日在る蔭には五年前九十歳で亡くなった母の苦労の多かったことは言う迄もない。

若い頃は人一倍頑固で我がままだった父には母の力があったからこそ現在の
健康が保たれていることは想像できる。素晴らしい母を持ったことは私達子供としても常に感謝と誇りを感じている。

今年「山森」は創業してから満三十年になります。今迄多くの皆様の御世話になり大過なく営業を続けて来られたことは誠に有難く心から感謝しております。

加えて今日あるのも一重に父のお陰です。今年十二月父が百歳を迎えるに当たって、ささやかな記念としてこの小冊子を発行しました。御一読下さって是非父にあやかって長寿なさいます様ご祈念いたします。

昭和六十二年九月吉日

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富士山登山記念(昭和48年10月·86歳)

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昭和61年11月11日撮影

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森房次郎翁小伝

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少年時代
翁は明治二十一年(一八八八年)十二月二十三日、多賀郡大久保村の山本伝之助氏の三男として生まれた。長兄の力太郎氏は税務署貝であった。間税課長当時‘ 足利第二の織物問屋「岩下商会」に商才を認められ、請われて同店の重役となり横浜支店長となった。次兄の愛之助氏も税務署に勤務していたが、兄と同様直税課長の時、常陽銀行の前身常磐銀行に転職、後に常陽銀行初代日立支店長などを勤め昭和止十八年百歳で他界した。

山本家は村の庄屋をつとめた格式の高い旧家である。幕末の志士武田耕雲斉なども出入りし、曽祖父は耕雲斉に大変可愛がられ書などもかなりあったという。

大久保村は翌明治二十二年市制、町村制公布により金沢村下孫村と三ヵ村合併して国分村となり、昭和十四年、更に河原子町、鮎川村と三町村合併、多賀町となった。そして戦後、昭和三十年日立市と合併したが、翁か生まれた当時は戸数二百三十戸、人口千二百人足らずのごくありふれた何のとりえもない一農村に過ぎなかった。

周囲は殆ど畑で田はあまりなく、「大久保、金沢のつるし米」といわれ、現在の多賀駅あたりは畑であった。

当時は、日立製作所は未だなく、その母体となった日立鉱山すら創業していなかった。

常磐線も開通していなかった。勿論、電気もなく、車もない時代であった。
日本の資本主義の夜明け前であった。

翁が小学校に入ったのは明治二十七年、日清戦争が始まった年である。

教育制度が確立して間もなくで、明治十五年に大久保小学校はできたか、まだ高等科は設置されてなかった。小学校令で初めて小学校を尋常•高等の二段階とし、修業年限を各四年と定めたのは明治十九年である。しかし、貧しい農村にあっては、子どもを小学校に入れることすらなかなかてきなかった。また、各村では独自で高等小学校を設置出来るほど財政的な余裕もなかった。

そこで、各地で何ヵ村か集まって高等小学校を造ったのである。いわゆる組合立の高等小学校である。国分村は、昭治二十六年高鈴村、鮎川村、河原子町、坂上村の―町四ヵ村で組合を作り、水戸藩の郷校暇修館を校舎にあて開校した。

翁は、国分尋常小学校で四年学ぴ、さらにこの暇修館へ四年通った。

当時、高等科に入るものは一村で数人で、卒業すれば代用教員になることができた時代であった。従って翁は村のなかではインテリ階級に属した。

翁は小学生当時の思い出を次のように語っている。

「全校生徒で百数十人。二百人はいなかった。同学年の同級生は四十一人で四年生までが小学校だった。高等科へ進むものはさらに少なかった。勉強では修身が一番頭に残っている。」

明治の小学校教育では修身が最重要科目であった。

それは、富国強兵策にのっとった「忠君愛国」の思想教育であったが、人としてのあるペき姿を教える一面もあった。

翁のその後の、生きざま‘、人生観はこの八年間の小学校教育で受けた修身教育によって培われたといってよい。

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翁は言う。

「小学校の時の修身教育、それに従って私は、その後すべて行動をしてきました。その―つは”我身をつねって他人の痛さを知れ“です。対人関係です。これは‘商売で言えば、売る場合は、ある程度買う人の身になって売る、買う場合もある程度売る人の立場も名えて、ということです。それは商売ですから、赤字になっては困りますか、儲けはほどはどに、深追いはしない、ということです。私は、商売をする時いつもそのように心かけていました。」

常磐線が全面開通したのは明治三十一年八月。助川駅(日立駅)と下孫駅(常陸多賀駅)が営業を始めたのはその前年明治三十年二月二十五日であり翁か丁度小学校四年生の時であった。

汽車が通るというので兄弟で下孫駅まで見物に行ったのを覚えているという。初めて見る汽車の轟音と耳をつんざくようなけたたましい汽笛の音にびっくりしたそうである。

これまでを顧みて

翁は八十八歳、米寿の祝(昭和五十年)の時出版した小冊子のなかで、八十八年を回顧して次のように記している。

「八十八年は、今振り返ってみると長いようだが短かったような気がしてならない。この間、いろいろ仕事をしてきたが、結論から言えば、昔から”八細工貧のもと“ とか“好きには身をやつせ”という諺があるが、私は八細工以上に仕事を転々と変えた。したがって、成功はせず、結局、プラス、マイナス差し引きゼロという結果になった。」

しかし、これは何事においても飾らぬ、そして控え目な翁の謙遜であり、その言菓通りに受けとるべきではない。

確かに、勲章を貰うとか、大会社の社長にというような意味では世にいうところの成功者とは言えないかも知れないが、次のような社会奉仕は、人生の成功者でなければ出来ないことである。

その―つは、相撲道場の寄付である。これは、昭和十四年、翁が勝田で材木店を営んでいた時の話である。

当時は、日中戦争が始まって二年目、村少年の体育向上を目指して相撲熱が盛んであった。

佐野村でも、相撲道場を造ろうということになったが予算がない。
そこで、村の名士・・・村長、助役、議員、校長先生などが翁を訪れ「何とか、ご寄付を」とお顔いされたのである。

翁は、「青少年の体育向上に役立ち、ひいてはお国のためになるのなら」と‘ 快諾。一人で建設森金を全額寄付し、佐野小学校校庭に立派な相撲道場が完成したのである。

現在の金に換算すると約五、六百万円位になる。

道場開きは、相撲協会から本県出身の小結「鹿島洋一行」を招き、村をあげて盛大に行われた。

翁は、「道場を寄付しただけでは済みませんでした。周りに回した四尺1の富士絹、これも随分かかりましたし、もろもろの経代を入れるとかなりの出費になりました。」と当時を回顧する。

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社会奉仕、相撲道場を寄付

次は、軍用飛行機献納にあたって、個人として最高額を寄付した話である。
戦時中「制空権なくしては勝利なし」の呼びかけのもとに軍用機の献納運動が、大政殴賛会などの音頭とりで全国的に行われた。

そして、その額が、国に対する忠誠心のあらわれとみられ各市町村で競いあった。しかし、各家庭で出せるのは二、三円どまりでなかには十銭、二十銭というのさえあった。

そのような時代に、翁は三干円をボンと寄付したのである。

これは、多賀町で、個人としては最高額であった。

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県下では下館町(現下館市)が‘ 昭和十九年二月「軍用機下館号」を献納したが、当時町長の松岡龍雄氏(松岡病院長・戦後下館市長)でさえ‘ 寄付したのは千円であり、それが町で最高額であったことを考えても‘ 翁の三千円は如何に多額であったか想像できる。

翁の記憶では、当時は戦闘機一機一万円で出来るといわれていた。それで一機分をと言われたが、そこまでは出来なかった。多賀工場か寄付したのも三干円だったそうである。

世のなかには、お金があればあったように、貯めるだけで社会に遠元することなど全く考えない人も少なくない。ところが、翁の場合は、商売で儲かればそのお金を必要なところにはチャント使うし、筋が通る金ならけして出し惜しみはしない。

この父親ゆずりの社会奉仕の精神は森秀男氏にも引き継がれ昭和五十一年(財)日立文化事業団発足に際してはやはり個人としては最高額の五百万円を黙って寄付している。

また、翁の社会奉仕、人助けについては次のようなエピソードもある。それは‘西瓜市場の開催である。材木商と西瓜市場というのは変な取り合わせだが、その経緯はこうである。

西瓜が大当たりで買手がなく農民が困っていた年があった。翁は、何とかしなければ農民がかわいそうだ、と村役場、水戸の青物市場を駆け歩き、村当局と一緒に西瓜市場を開き処分してあげたのである。荷は近隣町村からも続々集った。

当時は炭鉱が盛んだったので福島県の方からトラックで買いにくるものもあったという。値段は安く新鮮なので次から次に売れ、この西瓜市場の開催は農民から大変喜ばれたそうである。

この西瓜市場は、二、三年続いて開催された。県議会の改選時期を迎えた昭和十八年のことである。村民のなかには西瓜市場を開催してくれた人だから‘ このような人に議員になって貰えばと翁を推そうという世論がもちあがった。

しかし、多賀の居宅が類焼にあい、その復興、多賀町への転居、それに戦時下という特殊事情からとられた県議の任期延長措置などからこの話は実現しなかった。

翁は、佐和を引き上げるに際して、「私の代りに息子を今後とも宜しく」とお願いして去った。

昭和二十二年、戦後初めての県議選に長男•森卓男氏は勝田から出馬、当選を果たしたがこの陰には翁のこれら数々の功績にあずかるところが大きかったようである。

翁が選挙資金を出したことは言うまでもない。

人柄

翁はいつも柔和である。外に対しては怒った顔を見せたことかない。

しかし、正義感は人一倍強く、悪にたいしては敢然と立ち向うといった強い似念の持主である。世のなかの悪を黙認できない、みんなのためになると思えば、自分の損得など考えずに行動するのである。

昭和の初め頃の話である。

国分村の産業組合で幹部の不正事件があった。

それは、組合幹部が、組合の金を流用し、東京の肥料会社から役員報酬を貰っていたという事件であった。

しかし、組合幹部は村の有力者であり、村民は後で憎まれるのか嫌で見て見ぬ振り、誰一人として取り上げるものはいなかった。

それを、翁は総会の席で数回にわたって糾弾。遂に幹部を退陣に追い込んだのである。

昭和十年十一月の「茨城評論」は、その時の翁の活躍ぶりを次のように伝えている。

地方に光る人々

村の改革者  森房次郎君

日本は今や変革期に在る。国家も地方町村も、共に一大革新を断行して新しき時代に転換しなければ、その前途深憂に堪えぬものがある。而も中央に於ても地方に於ても挺身、これに当る勇者は洵に窄々、暁天の星のごとく少ない。多賀郡国分のわが森房次郎君は農村の革命児と称してよい。

彼は温良実篤の君子人であるが、その半面、当代に於て稀らしい正義消廉の士である。大衆の生活を脅かす不正は断じて黙過し得ない熱血愛民の硬骨漢である。
先年、居村の信用組合が一部少数者の機関化し村民大衆を無視し村民の非難があがる。而も一人の改革に乗り出す者はない。

弦に於て彼、村民大衆の苦悩と焦燥を傍観するに忍ぴず、だが独り敢然諏起し総会席上、組合経営の不正に鋭いメスを入れ腐敗の根源を絶滅すべく堂々革新を熱論すること数次、遂に組合改革を実現した。

組合大衆は組合を起死回生せしめた彼を徳とし組合幹部たらんことを熱求懇請したが、改革のみが目的であり経営者たるは希む所でないと固辞して受けず、製材業に専念、事業も年と共に躍進発展の一途を辿っている。
将来村政を背負って立つ逸材である。

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今春行われた日立市長選挙に末子•森秀男氏は出馬した。親譲りの惜熱から停滞した日立の現況を黙ってみていられなかったのである。常識的に言って、ニヵ月という短い選挙期間や‘ 組織をもたない選挙でありなから、市民一人ひとりの草の根運動で阻万五千票というのは善戦で、次回を期待されている。

翁は、「もし選ばれて市長になったなら、財政遥迫の折、給料など買わずに市勢発展のために努めよ」と激励し、一家一門の名誉であると
して選挙狡金を応援した。

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また、上のようなメッセージをお世話になる連動員各位におくった。
これは今年百歳を迎える翁の自箪である。

普通なら「必勝を期して」などと言うところだが、「勝っても‘ 負けてもいいから悔いのない戦いを」というあたり、如何にも翁らしい言葉である。

選挙の結果についても「負けるが勝ちということもあるのだから」と励ましている。

翁の度量の大きさを物語るものである。

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材木業で成功

翁が初めて就職したのは税務署の雇いであった。しかし、すぐ辞め上京、 日本橋にあった薬種問屋「栄屋」の店員になった。いつまでも田舎にいても仕方ないと青雲の志を抱いての上京であった。

しかし、夢半ばにして掃郷せざるを得なくなってしまった。

脚気に罹ってしまったのである。当時、田舎から都会に出て行く者が罹る不思議な病気であった。

今でこそ、脚気はビタミンB1の欠乏により起こるくらいの事は誰でも知っているが、当時の医学では、何故起こるのか原因が解らず、田舎に掃る以外に治す方法がなかったのである。

鈴木梅太郎がビタミンB1の抽出に成功したのは明治四十二年であり、薬として商品化されたのはさらに後である。

帰郷後、農業に従事、しばらくして村の産業組合(現在の農業協同組合のようなもの)に就職した。

二十四歳、明治四十三年である。

月給八円であった。

在職中真面目な勤務ぶりと温厚な人柄が見込まれ、二十六歳、大正二年に同じ村の旧家である森家の五人姉妹の長女くらさんと結婚、森姓となった。

しかし、三十六歳の時、不幸にも肋膜炎を患い、病院生活を送り、療養した結果幸いにして全治したものの勤務は無理な状態だったので産業組合を在職十三年半で退職した。

その後、しばらくして佐和駅前で精米業を始めた。これは三年ほど続けた後、材木業に転業した。

当時、材木店は水戸の下市と太田にしかなかった。そこで佐和で材木店を始めれば当たると思ったのである。

これは翁の予想通り大成功だった。

仕事は順調で、従業員も増え、年一回の慰安旅行にはいつも、四十ー五十人を引き連れ、伊豆地方や、成田山などに行くほどまでになった。

翁は、その当時の模様を次のように語る。

「村では、青嵐荘が拡張され、馬渡では飛行場が拡張され、木材の需要が盛んになり、地方売りでも製品が注文に応じ切れないほどでした。私と妻は、寒中でも夜が明けないうちに必ず起床して、工場に焚火をし、従業員が出勤する時間前に来ればすぐ仕事につけるよう準備をしました。また、夕方は夕方で暗くなるまで製品の片付けや、明日の出荷品の
下調べなど家中で慟いたものです。」

このため、かなりの資産を残すことができた。相撲道場を村から頼まれて、一人で建設費を寄付できるほどの余裕もできた。

昭和十八年二月たまたま前述のように多賀町の居宅が貰い火で焼けた。
養父もいたし、直ちに居宅を再建したが、この時、丁度国策にそって誕生した多賀町農業会の常務理事就任の話がもちあがった。

佐和での製材業を成功させた経営手腕が買われて町内の旧友、知人から嘱望されたのである。

多賀町農業会は四ヶ町村合併によって設立された会貝二千二百人、県下第二の大きな組織であった。

熟慮の末、翁はこの申し出を受けることにした。

農業会は、従来の股会と産業組合を統合して結成された戦時下の農民を結集するための全国的系統組織であり、自分でなければこの仕事は出来ないと思ったのである。

長男の卓男氏はその時既に三十歳、立派に一人立ち出来るまでに成長していたし、兵隊に行かなかった翁にとって何よりも、お国のために尽くせるのが嬉しかったのである。

佐和の店は‘ 長男の卓男氏に任せ一家は多賀に引き上げた。
翁が、軍用機献納に三千円を寄付して話題になったのもこの年のことである。

昭和十八年は、太平洋戦争も一段と敗戦色が強まってきた年である。五月には連合艦豚指令長官・山本五十六悔軍大将が戦死、アッツ島での玉砕、十二月には「タラワ」「マキン」雨島の玉砕が報じられ、内地ではあらゆる物資が不足し始めた時代であった。

農業会の仕事は、従って米の供出、肥料、農機具などの配給など忙しい毎日であったが翁は業績をあげ期待に応えた。

昭和十九年には町内有志と計って戦況悪化にともなう食料確保のため‘ 中丸地区の開墾事業に着手した。

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多賀町農業会長として

昭和十九年大窪義一会長の死去にともない翁は多賀町農業会長に就任した。
会長在職中に終戦を迎えた。
戦後、この多賀町農業会は解散、新しく昭和二十二年十二月施行の農業協同組合法によって誕生した多賀町農業協同組合に一切の資産、業務を委譲することになった。

翁は会長として無事清算事務を完了した。

また、翁は県農業会の県農業協同組合連合会への資産委譲にさいし、資産処理委員長に選ばれた。その時副委員長として翁を補佐したのは、後に県議、農協中央会長などを務めた鯉淵丈男氏である。

県農業会の資産は、当時県内にあった四ヵ所の病院のほか、農機具工場、食品加工場などがあり、時価にして十二億円相当のものがあった。これを清算して茨城県農業協同組合協会に委譲する業務で、諮問機関として「資産処理委員会」が設置されることになったのである。

昭和二十三年当時は合併前で県下に農業協同組合が四百三十二あった。翁は四百三十二人の組合長のなかから七人選ばれた処理委員の一人に選ばれ‘委員会でさらに委員長に推されたのである。

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この業務は約三ヵ年続いたが無事完了して大役を果たした。
当時、一緒に仕事をしていた鯉淵さんは
「最年長の森さんが委員長、最年少の私が副委員長に選ばれた。その頃、農協会館が焼け、書類も灰になってしまったが、幸い‘ 控えの写が農林中金支店の倉庫に保管されてあったので大助かりしたことを覚えている。森さんは真面目一点張りの正義感の強い人で、仕事にも積極的だった。無事処理作業が完了出来たのも森さんの責任の強さだったと思う。いま振り返ると‘ 六十歳と三十六歳のコンビの賜物だったのかも知れない。」
と述懐している。

山森材木店の創立

戦争は、市民生活を徹底的に破壊する。物的、人的損害ばかりではない。軍事経済の破綻によってもたらされるインフレーションである。翁は、営営として働いて銀行に預金しておいたかなりのお金が紙屑同然になってしまった。

戦後のインフレーションは僅か半年で物価が四倍にもなるといった高率であった。このため政府はその抑制策として、昭和二十一年二月新円切り替え、 預金封鎖を行った。

どんなにお金があっても、一人百円しか新円と交換できず、引き出しは世帯主三百円、家族は百円以内という内容であった。

銀行に預けてあるお金は使えず、日毎に目減りしてゆくのである。
翁は、このため、また一から出発しなければならなかった。

そこで、戦後の食料増産に一役買おうと肥料会社を起した。肥料会社といっても石灰製造である。大久保町の菩堤沢の官林に原石の青寒水石があるからそれを利用しようとしたのである。

しかし、これは鉱区の採掘権を申請‘ 許可になって製造も開始したものの、製品の色が純白にならず、効能は良くとも商品価値が低く売れ行きは思わしくなかった。

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やむを得ず、翁は営林署から借りていた一万八千坪の鉱区権を日立セメントに譲渡し、石灰製造を打ち切った。

翁は、再び製材業を始めようと考えた。今後の木材の需要拡大を見通してである。

昭和三十年七月、翁が六十七歳の時である。普通ならそろそろ隠居を考える年頃である。

慟いて働けない事はないが第一線に立つのは無理である。

そこで中央大学在学中の森秀男氏に相談‘ 本人の希望もあって山森材木店の創業となった。

森秀男氏は、学校を止めたあと約二年、高萩の安村木材店に見習奉公に行って材木のイロハから勉強した。

そして、昭和三十二年七月山森材木店を創立した。

これが、現在の(株)山森の前身である。
この時、森秀男氏が学業を続けていたら、現在の山森グループは存在しなかったかも知れない。

翁の先見の明には蹄くばかりである。

創業当時は、従業員僅か一人のしがない材木店に過ぎなかった。

戦後十二年、既に日立には戦後間もなく始めた材木店もあり、創業当時の苦労は並大抵ではなかった。

森秀男氏は、当時既存業者の誰も行っていなかった「材木の出前」など斬新な商法を編み出し、済々と今日の地位を築きあげていったのである。

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家族

翁には、七人の子供がいる。
妻のくらさんはこの子たちを育てるかたわら翁の仕事を手伝った。
翁は自分の妻を営めては笑われるかも知れないがと前留きし、次のように回顧する。
「とにかく慟き者でした。妻としては申し分なかった。夫の事業をよく助けてくれたし、私が何をやろうと反対しなかった。私が、いま何不自由なくこうしていられるのは妻のおかげ。特に学校を出た訳ではなかったが、私の留守中に帳簿付などをひとりで勉強して計算でも何でもしました。」
子供たちは、いずれも立派に育った。
長男の卓男氏は県議となり県政で活躍、その後、中小建設業者のために茨城県建設業協同組合を創立、初代理事長、さらに全国建設業協同組合連合会を設立‘これまた初代会長として業界の発展に尽くした。また、昭和建設株式会社を現社長の鯨岡昭雄氏と昭和三十年設立、県内有数の企業に育てあげた。
道路行政については、全国的に有名で建設省専門委員などの数々の要職についたが、惜しくも昭和五十九年死去した。

森卓男氏も翁同様、清廉潔白の士であった。
生前、最近の議員風情について次のように語っていたことからもその片鱗はうかがえる。

内助の功

「昔は議員をやると家を泊したものですが‘ 今はどうです。議員先生となるや、大邸宅を建て、ふんぞり返っている始末。金儲けの手段に議員になりたがる。事実議員になると金が入ってくる。というもの、現在の県会議員のうち半数以上が土建屋の会長か役員だ。県発注の公共事業、市町村の事業を俊先的に受注してしまう。これは自治法迩反でありそれを許している県や市町村も悪い。私が議員当時は議員の不正に対しては厳しかった。ある時県がアンゴラウサギの飼育を始めたことかあったのです。こういった儲け話になると必ずといっていいほど議員が介入してくるもので、この場合もある議員が横ヤリを入れてきたんです。これが表沙汰になった時、議会の態度は厳しく‘ この議員を見ると、アンゴラ議員と呼んで長らく村八部的な制裁を加えました。

今じゃ、蔭で悪口を言うものの、正面きって言う人はいない。
今じゃ村会議員でも平気で業者に金を要求するんですから困った世の中になったものです。」
(「地方の時代」•一九八〇年七•八月合併号のインタビュー)

卓男氏は、昭和四十六年には藍綬褒章を受章、昭和五十九年には多年に互る建設業界への貢献によって勲四等従五位・瑞宝章を贈られた。

翁は、「一家の名誉です」とこの受章を喜ぶ。

現在、二男の次男氏は、日製を定年退職後、悠々自適の生活。民生委員等を長らく務め数々の表彰を受けている。

森卓男氏

長女静枝さんは市内千石町の元税務署勤務の鈴木達二氏へ嫁ぎ、次女喜代子さんは東京小金井市元陸運局勤務、現在三多摩自動車協会専務の小田富彦氏へ嫁いでいる。

三男の徳男氏は、勝田市で中古車の販売で関東一の実績を誇るオノセグループの会長。

現在三期目の勝田市議として活躍中である。

また、四男の幸男氏はアメリカで、事業を経営するかたわら在米日本人のお年寄りを対象とした教会で牧師として働いている。

五男の森秀男氏は(株)山森グループの代表として、また、日立木材開発協同組合理事長、茨城県総合開発審議会委員を始め多くの役職を務めながら活躍している。

政治家、牧師、どちらも世のため‘ 人のために尽くす職業である。翁の、正しいものは正しく、悪いものは悪いとする正教感と社会奉仕の精神はそれぞれ子供たちに間違いなく引き継がれているようである。

「森房次郎翁の百歳を祝う会」実行委員会

百歳を祝う

追記

翁は、昭和六十三年、満百歳の正月を目出たく迎え、二月三日には、家族とともに日頃から崇敬する鹿島神社(大久保)の節分祭に参加した。
神社では、百歳の豆まきはこれまで例のないことなので、翁の長寿を祝って特別に儀式用の装束である上下(かみしも)を新調して記念に贈った。
翁は‘ 参加者を代表して悪腐はらいの弓弦行事のあと、退散する悪版めがけて勢いよく矢を放ち、大きな声で「福は内、鬼は外」と元気に豆をまいた。当日、節分祭に参加した。年男たちは「百歳の人と一緒に豆まきができるとは、目出たい、目出たい」と大喜びだった

100歳で元気に豆をまく

付録 長寿の秘訣を聞く

自宅縁側で

百歳を迎えて、いまなお働く 森房次郎翁を訪ねて

森房次郎翁は‘ 今年かぞえで百歳を迎える。日立市で男性では最高齢者である。

森秀男さんから‘ 父の白寿と会社の創立三十周年を記念して何か小冊子を作りたいという話があったのは昨年春である。

百歳近いというから定めし寝たきりでいるのかと思ったら、訪れてみて誘いた。何と自宅前の畑で慟いている。

最近は目か悪くなったので新聞を読んだり、テレビを観たりしなくなったというが、それでも話がはずめば「北方領土問題」にまで及ぷ。今春、森秀男さんの日立市長選挙出馬が話題になった時、訪れた新聞記者に「お話はありかたいが、政治と経済は別、そのような所に名前が出るだけでも光栄です」と挨拶、そのかくしゃくぶりが話題になったはどである。

七十歳代、八十歳代で哀たきりのお年寄りになってしまう人もいれば、翁のように百歳になってもかくしゃくとしている人もいる。

一体、同じ人間で、何故このような差が出てしまうのだろう。
以下は、翁に聞く長生きと健康の秘訣である。
「森房次郎翁の百歳を祝う会」実行委員会

長生きの秘訣は

ー 長生きなおじいさんの健康法をお聞きしたいのですが。

翁 イヤイヤ私なんかーー。ご承知の通り、一年増しに医学が進歩し健康に注意される方が増えて、長生きしてる方が大勢おいでになります。これは一般的、世界的傾向じゃないですか。

ー 百歳近くなっても何でも、自分でなさるお年寄りは本当に少ないですよ。

翁 そんなこともないでしょうよ。誰だって自分のことは自分で出来るうちはしたいというのが本当だから、人間として(自分の体を守ることは)心掛けるべきでしょう。自分の体は自分で守るしかありません。他人は守っ
てくれません。出来なくなったらしかたないでしょうがね。しかしながら出来るのに”出来ない、出来ない“ ”体が弱った、弱った“と愚痴ってばかりいる人もいます。自分で丈夫な体を弱くしているようなもので、大いに考え直さなければなりません。

ー日頃、心掛けていることは何ですか。

翁 人間として生まれてきたからには、誰も、健康で、自分でやりたい仕事を成し遂げたいという気持は同じでしょう。人間の能力の差はそんなに違うものではない。要するに、やる気になってやるかやらないかということで
す。私の小学時代は修身教育があって、すぺての行動の基本にしていたものです。その中で頭に入れた第一の目標は、対人関係のうえで「我が身をつねって人の痛さを知れ」ということ。他人をつねったり、自分のことだけ
を考えてはいけない。商売の上でも、買う人の身になって、相手の心を自分の心に引き入れて考えるっていうことです。つまり無理はしない。体のうえでも心のうえでも無理をしなければ夜、じっくり眠れるんです。

よく眠ること

自分の健康を守る第一の要点は、夜じっくり眠ること。九十八歳の時、白内障の手術をしたんですが、その時のお医者さんが私に「長生きの秘訣は何ですか」と聞くんです。お医者さんがですよ。だからね、夜じっくり眠ること‘ 心配事があれば夜眠れない。(私は)商売でも何でも無理をしないから夜
じっくり眠れる。それが長生きの秘訣だとお答えしたんです。今までもなんどか聞かれて、そうお話したと思うけど、お医者さんに宣伝したのはこの時が初めてだ、ハハハ。対人関係や世の中の事で悩んで眠れないとか、無理
難題を提案されて困ることだってあるし、何事でも”絶対ない“ ことはないでしょうが、しかし、自分が(人を困らせるようなことを)やらなければ、夜眠れないというようなこともないと思いますよ。

栄養のあるものを食べる

ー 第二は。

翁 そうですね、自分の健康の面から言うなら“栄養”ということでしょうね。自分の体に合った食べ物を食べる。病気になったら、その病気を治すようなものを食ぺる。まあ、口と心がいくらか違って行動する人もいるようだが、健康本位に食べものをとるということが大事でしょうね。目が食べたいとか、口が食べたがっているとか言って、飲んだり、食ったりしている人もいるが、無理をすれば病気になるのは勿論のこと。自分の体の健康本位にすることでしょう。仕事に例えれば、五臓六腑は自分の使用人と考え、無理に働かせることはしないことです。物を食べれば胃袋に入る、胃袋に入れば胃袋が一生懸命消化するために働くわけで、消化の悪い物を食べれば、胃袋に無理が来るし、小腸や大腸にも順ぐりに無理がいくわけで、いいことは一つもない。

病気のときは

ー 若い頃は肋膜を患ったり、胃潰瘍になったりしたそうですか、どう克服なさったんですか。

翁 三十六歳の時‘ 肋膜(ろくまく)を患って水戸の常磐病院(現・協同病院)に入院したこともあったなあ。胃潰瘍の時には、谷口胃腸外科にかかったんだが‘ 入院して手術しなさいと言うわけで、どれくらいか聞いたら
一ヵ月ぐらいかかると言われてね。その頃は商売が忙しくてね、飛行場だの、束海の晴嵐荘病院の建設だのと何ぽ製材しても飛ぶように売れていた時代だから。「一週間分の薬あげるから様子をみなさい、それで効かなかった
ら入院しなさい、命が大事ですよ」と驚かされたが、「かゆ」と「うどん」で節制しながら頑張って結局入院せずに治してしまった。三年続きましたかねこの生活は。その他、人に勧められて湯治にも大分行きましたよ。

ー 若い時分は暴飲暴食もあったわけです

翁 若い時分はいろいろ商売しておりましたから付き合いも広くてね、従業員四人ぐらいの国分村産業組合に勤めていて集金したり、飼料売ったり、忙しく働きましたから。そこには十三年半いて、肋膜になったのもその時
代でした。

ー 死ぬような思いを何度かして節制するようになったわけですね。病気になってはやりたいことも出来ないと

翁 そうですね。やっぱり病気にならないうちはさほど頭になかったが、病気になってみて、医者の言うことをよく聞いて、悪いということは絶対しなかった。この位ならと酒を飲む人もいるけれど治るまで飲まなかった。人の一生は長いんだからと治るまで我漫した。それが結果的にはよかったんですね。よく好きな酒やタバコを止める位なら命は欲しくないという人もいたがそんな人は皆早死してしまった。

若い頃は

ー 昔は随分お飲みになったそうですね。それが「飯より好きなお酒」を断ったんですからすごいですね。

翁 いやあ、若い頃は飲兵衛で有名でしたよ。今は木材市場になりましたが、昔は立ち木のままの山に調査に入って‘ 職人さん何人も使って伐採、運搬して、製材して売ったんです。私か酒が好きだって言うんで、相談ごとの前に一杯飲んでそれから仕事にかかるっていうようなことも多かったですよ。

ばあさんはありがたい

ー おばあさんも長生きでしたが、お二人の楽しみは何だったですか。

翁 割合にバアさんは丈夫でしたが、酒は本当に嫌いで、少しも飲まなかった。

ー 七人もの子を産んで育ててくれたおばあさんのことをどう思っていますか。

翁 まあ、有難い、いい妻だったと思っています。ひと口に言えば…。誰もそうでしょうが、嫌いで一緒にいる人はいないんだから。

ー 女の人のことで泣かせたりしたことは。

翁 そんなこと忘れちゃったなあ。もう古い話だ……。(みんなで大笑い)

ー 今でも自炊なさるそうですが、どんな物か好物なんですか。

翁 別にこれと言って。強いて言えば滋養かあって消化がいいものですね。今は有難い世の中ですよ。お店へ行けば何百種類もの物が安い値段で売っていて何でも手に入るんですから。私は牛肉は霜降り以外は食ぺません。値段は高いですが、やはり、それだけのことはありますよ。栄養もあり滋養もあります。ま、値段より滋養があって消化のよい食べ物を選ぶことも肝心でしょうが、安くても値打ちのないものはだめですね。

森秀男社長談 = 父は‘疲れているなと思う時牛肉を食ぺると元気になります。

三年前まで新聞も読む

ー おじいさんは大変お話がお上手ですか本を読むこともお好きでしたか。

翁 随分読みましたよ。目か白内障になる前は新聞も三種類ぐらいとっていまして、要所要所はほとんど読んでいました。今はラジオを聞くのが楽しみです。

ー だから新しいこともよくこ存じなんですね。

翁 いやいやそうでもないですよ。人生何十年となく暮らして来ましたから‘ もうアレも見たい、コレも見たい、という好奇心を持たず、呑気に暮らしたいという考えですから、そう、いろいろ頭に入れないことにしているんです。それではいけないかもしれないがね。人生に対してやるべきことはやったんだから、ここらでそろそろ頭を使わないことと、私の心も変わってきました。荷物を背負って歩いて来たとすれば、荷を降ろす時代に入ったということでしょうな。

国際情勢はきびしい

ー それでは世の中のことで気がかりなこととは?

翁 別にありませんね。今の世の中は容易じゃない時代で生存競争は激しくなるばかり。少し前までは国内ですべてのことを処理していたのに、今では何でも世界的でしょう。国際関係だって容易じゃない。皆さんもこ存じ
のようにソ連が日本を虎視眈眈とねらっている。北方領土の問題も日本国民 全部が知っていることです。日常の生活費を切り詰めて貯金したり、国防機関に献金したり、税金を払ったりするのが国民の要件(訣)ではない
かと。本当に、”備えあれば憂いなし“ですよ。十歳も二十歳も私が若ければ新聞にでも意見を出したい考えがないこともないが、こんな年の人間かそんな大きなことをしたら笑われてしまうからと思って、有難い世の中に古査らしているのだと思うことにしているんです。

子供たちの教育

ー なるほど、大勢のお子さんはそれぞれ社会で成功していますか、特別な教育方針があったんですか。

翁 もう忘れてしまいましたね。孫たちに“おじいさん今は時代が違うよ”と言われてしまったことがありましたが、時代、時代である程度の違いはあるでしょうが、大筋では、自分に恥かしくない生き方をするというようなことではないでしょうかね。ひと言ではなかなか言えませんよ。私は‘ 人様のためや、世の中のために、ことさら何かを言うほど値打ちがある人間ではないと自覚していますから。そんなこと柄じゃありません。

ー 百歳になられるというのに尤もなお話ぶりで、少しもぼけた所がありませんね。ぽけない秘訣は何ですか。

翁 そんなにほめないで下さいよ。恥かしくなってしまいます。ここいらで勘弁して下さい

森秀男社長談 = とにかく. よく頭を使っているし、意志が強固です。

誠意と努力

ー 座右の銘など聞かせて下さい。

翁 この間の年賀状には「誠意と努力」と書いたんでしたか。昔と言っても二宮尊徳は徳川時代の人でしたかね。貧乏な家に生まれ‘働き慟き勉強して、地域のため、世の中のために働いた人でした。これまで、それこそ数
限りなく立派な人が出ていらっしゃいますか、その中でも二宮尊徳は好きですね。そういう人の千分の一でも真似したいと思って暮らしてきました。

ー これまで生きてこられて一番嬉しかったことは何ですか。

翁 今ご質問うけても、急には思い出せませんね。たゞ親孝行な子供達には持に感謝しています。先頃も風邪かもとで尿謁症を起して危なかった時がありましたが本宅はじめ子供達、親戚皆んなの看病のお陰でこの様に元気になりました。ガンコじじいの私をよくもマァ、大事にしてくれると、これは本当にありがたいと思っています。

ー では、つらかったこと、悲しかったことは。

翁 悲しかったこと‘ 苦しかったこと、別にことさらありませんよ。だが‘ 三年前、長男卓男を亡くしたこと、その二年前にバアさんを亡くしたことぐらいかなあ。バアさんは九十歳まで生きたんですから、もうしかたないと言えますが、長年、一緒におりましたから、いなくなれば寂しいですよね。卓男の場合は六十九歳、まだこれからの年、出来れば自分が代ってやりたかった。まあ‘ 今になって考えてみると楽しかったこともないが、そう苦しかったこともなかったといえるでしょうね。

ー お仕事の途中にお邪腿してすみませんでした。また、ゆっくりお話を聞かせて下さい。ありがとうございました。

編集協力「森房次郎翁の百歳を祝う会」実行委員会

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